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おコメと、そのパートナーたち ブログトップ
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漬物① アジア独特の食料の保存方法 [おコメと、そのパートナーたち]

 加工食品の重要な役割の一つに、保存性を高めるというとがあります。

 加工貯蔵の方法には、乾燥・加熱・燻煙などが古くからありました。

 しかし、アジアにはもうひとつ、発酵法による貯蔵という独特の方法があったのです。

 漬物はその代表的な食品と言えます。

 中国最古の農書「斉民要術(さいみんようじゅつ)」に、穀類に塩をあてて乳酸発酵させる調理加工法が、小松菜や高菜を例にとって記載されています。

 わが国の文献の中に「漬物」が初めて登場するのは4世紀の頃、東大寺の正倉院に納められている古文書「雑物納帳(ぞうもつおさめちょう)」に「にらぎ」という文字が出てくるのですが、これは、野菜を塩漬けにしたもののことだそうです。

 「漬物」という言葉が現れるのは、平安時代の後醍醐天皇(905~927年)の頃に撰定された「延喜式(えんぎしき)」。

 山菜や野菜、果物を酒粕やもろみに漬けて供されたとあります。その種類も、春14種、秋36種とあり、その多彩さがうかがわれます。

 漬ける物も、漬け床も、どんどん多彩になっていきました。

 「延喜式」に登場する漬物の漬け床を挙げると、塩漬け、醤漬け、糠漬け、須々保利(米か大豆粉と塩を混ぜて漬けたもの)などかあり、平安時代すでに、塩だけでなく現在の調味漬けに相当する多彩な漬け方の原形があったのです。

 平安から室町へと時代が移るとともに、漬物はさらに多様化し、変化に富むようになります。

 室町時代は茶の湯、花、聞香などの新しい文化が生まれ、茶の湯の温度を漬物で加減したり、闇香での嗅覚の新鮮さを保つのに漬物を使ったり、漬物は高貴な文化の一端を担う役割を持つようになりました。

 「香物」という言葉は、まさしく室町文化が生んだものです。

 時代が下がって天保7年(1836年)に江戸の漬物問屋の主人が著した「漬物早指南」には64種類の漬け方が紹介されています。



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漬物② 江戸時代の人気物「たくあん」 [おコメと、そのパートナーたち]

 江戸時代の豊宮な漬物の種類の中でも、たくあんの需要は特に高く、しかもその生産量のほとんどを練馬(根利間)の農民に頼っていました。

 練馬大根は、この頃から人気者だつたのです。

 このように日本で漬物が独特の発達を見せた理由としては、主食としてのごはんの味によく合うからだと言えなくもありません。

 また、漬物は、食味だけでなく、食欲増進などの点からも、ごはんとの相性が、極めて良好と言えるでしよう。



漬物③ 漬物は、原料の持ち味を活かす! [おコメと、そのパートナーたち]

 原料が野菜である漬物は、当然ビタミン類が豊富であり、食物繊維の供給源としても優れていることから、糖尿病などの成人病には効果があると言われています。

 また、原料野菜の持ち味を損なわず、ビタミツなどの栄養分の損失もありません。

 しかも、野菜の生ぐさみやアクをとり、歯ごたえも良く、適量の塩味が香味・風味を引き出し、とてもおいしく食べられます。

 特筆すべきことは、浅漬けの場合はビタミンCがほとんどそのまま残っていること、糠漬けの場合は生の野菜よりビタミンBの含有量が多いことなどが挙げられます。

 また、塩分については、製法技術の改善により、市販品の場合、かつての半分以下に低塩化が進んでいます。 (全日本漬物協同組合連合会)
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海苔① 古代人が食べた「イワノリ」! [おコメと、そのパートナーたち]

 のり(古くは乃利と書きました)が上古の時代から食べられていたことは、1万年以上前の貝塚から発見される海藻類の豊富さから、十分に想像することができます。

 けれど、その頃ののりは、岩礁などに着生するイワノリであったと考えられます。

 出雲風土記(733年)には「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬいこうり)がもっとも優る」という記述があります。

 出雲の楯縫郡の海岸(現在の平田市十六島海岸)で採れるイワノリがいちばんおいしい、という意味です。

 また日本で最初の法律書である「大宝律令」(701年)には、約30種類の海藻類が「調(みつぎ)」として挙げられています。

 調は税金のこと。つまり、奈良・平安時代には、のりを始めとする海藻類は、税金の代わりとして納められるほど価値があり、貴重な食べ物であつたことをうかがい知ることができます。


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海苔② のりといえば「浅草のり」! [おコメと、そのパートナーたち]

 今日、わが国で食用として広く愛されている四角い形に抄き上げた乾のりは、江戸時代に入ってから、養殖されるようになったものです。

 約300年前に始まったのりの養殖は、明治時代になるまで、徳川幕府の政策によって、江戸以外の地方で行われることを、厳しく禁じられていました。

 現在、養殖されているのりは、大半がアサクサノリ、スサビノリの系統ですが、昔から「浅草のり」の名前があまりにも有名です。

 江戸時代、東京湾は現在よりまだまだ広く、陸地に深く入り込んでおり、浅草寺も海辺にあり、近くを流れる隅田川(当時は浅草川)の水もまた清らかで、その河口は、のりの養殖に適していたことから、ここで産出するのりを、「浅草のり」と呼ぶようになったようです。

 徳川幕府に守られた「浅草のり」は、そんな背景があつて、いつの間にか全国にのりの代名詞となつて広まつていつたのです。




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海苔③ 味でも、栄養でも、ごはんにぴったり! [おコメと、そのパートナーたち]

 縄文時代から海藻類は食用にされていましたが、米を始めとする穀類が主食となった弥生時代には、特に塩分を補給する目的で多く用いられ、海藻を煮詰めるなどして塩を作る方法も開発されていたようです。

 米が常食されるようになつた平安時代には、食塩とともに海藻が、責族たちの食卓に珍重されるようになりました。

 のりがごはんのおいしさを引き立てるのは、単に相性が良いだけでなく、ごはんの主成分であるでんぶんを消化吸収するのに必要なビタミツB1が、のりにはたっぶり含まれているからです。おにぎりをのりで包んで食べると、いっそうおいしく感じるのも、そんなしっかりとした理由があるからです。

 遠足やビクニックに行く時には、ごはんやおにきりとは別に、焼いたのりをビニール袋などに入れて持って行くと、香りや味もそのままに、しかものり独特の、あのパリッとした歯応えが味わえます。ちよっとした心づがいで、同じものでも何倍にもおいしく楽しめますね。




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海苔④ ビタミン・ミネラルの宝庫! [おコメと、そのパートナーたち]

 のりなどの海藻類は、ビタミツ類が多く含まれているだけでなく、カルシウム、鉄、ヨウ素などの重要なミネラルも含まれています。

さらに、血中のコレステロール値を低下させたり、体内の余分な塩分を排泄する食物繊維も豊富に含まれています。 (全国漁業協同組合連合会)

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納豆1 それは弥生時代から・・・ [おコメと、そのパートナーたち]

 稲作農耕文化が日本に伝わってきたのが縄文時代の終わり頃。

 そして、弥生時代に入ると、大豆を始めとする豆類の栽培も始まりました。

 けれど、当時の素焼きの土器では、大豆を煮るのは大変なこと。大豆がやわらかくなる前に、土器の方が壊れてしまいます。

 そこで、弥生時代の人々は、煮る時間を少なくするために、あらかじめ大豆を叩きつぶし、乾燥させてから煮るという方法を考案したのです。

 弥生時代の竪穴式住居は、中に炉があり暖かく、床には藁や枯れ草が敷きつめられていました。

 納豆菌に、ほどよい温度と湿度。納豆ができる条件としては、申し分のない環境だったわけです。

 藁の上に落ちた煮大豆が発酵し、いつの間にか「納豆」になっていたとしても不思議ではありません。

 最初は偶然の産物だったかもしれない納豆も、そのおいしさと保存性の良さから、次第に製法が工夫され、確立されていったことがうかがわれます
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納豆2 貴重なたんぱく資源 [おコメと、そのパートナーたち]

 文献をひもとくと、「納豆」という文字が最初に出てくるのは、平安時代に藤原明衡が著した『新猿楽集』です。

 納豆の語源は、寺の納所(台所)で作られたことに由来すると言われています。

 「納所」で「大豆」を原料に作られたから「納豆」。

 至極納得のいくネーミングと言えるでしよう。

 仏教の戒律によって肉食を禁じられた僧侶にとって、納豆は貴重なたんばく質源となっていたのです。

 納豆は、戦国の武将たちにとっても、大切なスタミナ源だったようです。

 文禄の役(1592年)で朝鮮へ出兵した加藤清正の軍は食料難に陥り、すでに空になった味噌袋に馬糧の煮豆を入れて行軍していると、馬の体温で煮豆が蒸れて糸引き納豆ができあがっており、空腹の武士たちの胃袋を大いに満たしたというエピソードが残っています。
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納豆3 ナット、ナットーは、江戸時代! [おコメと、そのパートナーたち]

 大豆を使った食品は、味噌も、豆腐も、納豆も、アミノ酸パランスに優れ、ごはんとの相性が実に良いのが特長です。

 米に少ないアミノ酸を大豆が持ち、大豆に足りないアミノ酸を米が持つていることから、お互いの欠点を補い合って、理想的なアミノ酸パランスがもたらされるのです。

 そんな優れた栄養価を持つ納豆も、商品として販売されるようになつたのは江戸の中期になってからです。

 「ナット、ナット、ナットー!」というかけ声で売り歩く納豆売りが登場したのもこの時代。

 炊き立てのごはんに熱いみそ汁、お新香、そして納豆という、朝食の定番パターンも、どうやら江戸時代にルーツがあるようです。


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納豆4 豊富な栄養!優れた食品! [おコメと、そのパートナーたち]

 「畑の肉」と言われる大豆が原料ですから、たんばく質が豊富なことは勿論ですが、注目したいのは、その消化吸収性の良さ。煮豆のままだと65%くらいですが、納豆の場台は、納豆菌の働きで、なんと80%以上にも向上します。

 納豆100gに含まれるたんばく質は約17g。

 これは、卵なら3個分、牛肉なら80g、豚肉なら120gに相当します。

 しかも、納豆は高たんばく質食品でありながらコレステールがゼロ。

 そのうえ、血中のコレステロールを洗い流してきれいにするリノール酸や、細胞の新陳代謝を活発にするレシチンも含まれています。 (全国納豆協同組合連合会)
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味噌1 中国生まれの日本育ち! [おコメと、そのパートナーたち]

 日本人の食生活とは切っても切り離せない「味噌」。

 その歴史は遠く飛鳥時代にまでさかのぼり、その起源は古代中国にあると言われています。

 味噌は平安時代までは、一部の上流階級の人々に珍重される贅沢品でした。

 その後、鎌倉時代に入って大豆の生産が増えると、禅僧の覚心によって申国から伝えられた「径山寺味噌(きんざんじみそ)」が裕福な庶民の間にまで普及し始めます。

 当時の味噌は、ごはんの合間にそのまま食べる「なめみそ」と呼ばれるものでした。

 現在のみそ汁のような食べ方が庶民の食生活にとり入れられるようになったのは、室町時代になってからのことです。

 すり鉢とすりこきで、大豆の粒の形をとどめている味噌を擂り、ペ‐スト状にすることによって、調味料としての利用価値を広げていったのでした。

 今に伝わる味噌料理のほとんどが、この頃から作られるようになつていたのには驚きです。


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味噌2 戦国武将、栄養源は「一杯の味噌汁」! [おコメと、そのパートナーたち]

 今では簡単で質素な食事と考えられがちな一汁一菜。

 日本人の食の基本とも言えるこの食事パタ‐ンも、実は「みそ汁」の登場に端を発しているのです。

 鎌倉から室町時代にかけて、禅宗の僧侶や上流武士の間で、精進料理や戦陣食としてもてはやされた「みそ汁」。

 大豆に含まれる良質のたんばく質が当時としては欠かせないスタミナ源だったのです。

 戦国武将の武田信玄や織田信長らも大切な栄養源として珍重していました。

 江戸時代にはすっかり大衆の味になり、ひとつの食文化を作り上げたのです。

 野菜、海藻、魚、貝、豆腐など様々な具を入れることによって、栄養価の高いおかずにもなったみそ汁は、以来、今日に至るまで、日本人の食卓と栄養を支える代表的な料理として長く受け継がれてきました。




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味噌3 日本人なら、ごはんとみそ汁! [おコメと、そのパートナーたち]

 温かいごはんとみそ汁は、最も身近な日本食の代名詞と言えるでしよう。

 米食文化の日本において、この「ごはんとみそ汁」の組み台わせは、栄養のパランスからみても絶妙なものと言えます。

 通常、米などに含まれている植物性たんばく質には、私たちの身体を構成するために不可欠なリジンやスレオニンといった必須アミノ酸が少ないのですが、味噌の原料となる大豆のたんばく質は、それらの成分を豊富に含んでいるのです。

 一方、米には大豆に不足しているメチオニンなどのアミノ酸が多いので、お互いを組み合わせて食べることによって栄養価値が高まるのです。

 このように「ごはんとみそ汁」の問には、おいしさだけではない栄養面でのパランス関係が保たれているのです。健康のためにも、ぜひ活用したいものです。

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味噌4 ヘルシー、おいしい! [おコメと、そのパートナーたち]

 古くから和食に欠かせない調味料として、また豊宮な栄養を含んだ食品として、味噌は日本人の食生活に根づいてきました。

 近年ではおいしさだけでなく、様々な食材と組み合わせることでパランスよく栄養をとれる食品として、欧米諸国でも注目を浴びています。

 味噌の効用として知られるものは多数ありますが、一般的にはコレステロ‐ルの抑制、動脈硬化予防などの成人病に効果があると言われています。

 しかし、みそ汁の塩分を気にされる方もいますが、実際には、みそ汁等からとる塩分の量は、一椀で1.6g程度です。

 また、具に芋類や緑黄色野菜、海藻、きのこなど、カリウムや食物繊維を多く含む食材を使うことで、塩分の作用を和らげることができます。 (全国味噌工業組合連合会)

豆腐1 昔も今も人気者! [おコメと、そのパートナーたち]

 豆腐の誕生には諸説がありますが、項羽を破って漢王朝をつくった劉邦の孫で、名著「淮南子」を書した学者でもある劉安の発明であるというのが通説になっています。

 その根拠は、明代の李時珍が著した薬学書「本草綱目」(1578年)の穀の部に、豆腐についての記述があり、劉安の発明であること、そしてその製法までが語られていることにあるようです。

 わが国に伝えられたのは、遣隋使・遣唐使として仏教や律令制度を学ぴにいった僧侶や留学生たちが、かの地からの土産として持ち帰ったのが最初ではないかと推測されています。

 文献としても、奈良の春日若宮の神主の日記の中の寿永2年(1183年)正月2日の記述に「春近唐符一種」とみえるのがわが国での最初です。



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豆腐2 豆腐の美味しさ [おコメと、そのパートナーたち]

 豆類は穀類と違って、単に水を加えて加熱しても容易にやわらかくならないという点で、古代人にとっては扱いにくい食品だったはずです。

 つまり、調理や加工に、より高度な技術が必要とされたのです。

 この難問を解決するのに様々な方法が発明されましたが、なかでも加熱し、次に砕いてペースト状にし、さらに塩で凝固させる豆腐づくりの技術は、極めて高度な食品加工法であり、大豆の栄養価を損なわず上手に消化吸収する理想的な調理法でもあったのです。

 もっとも、中国で作られ始めた頃の初期の豆腐は、硬くて決して美味とは言えないものだったようです。わが国に伝来してから、貴族や僧侶の食する精進料理として重宝されるうちに、苦汁のパランスなどが微妙に工夫され、日本人の繊細な味覚に台つた、今日のような味になったのです。


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豆腐3 精進料理から懐石料理へ! [おコメと、そのパートナーたち]

 遣唐使によって奈良時代に中国からもたらされた豆腐は、主に貴族や僧侶たちだけの食べ物でした。平安時代に栄西や道元らによって禅宗が伝えられると、「美食を戒めて素食をする」という思想のもと精進料理が盛んとなり、その材料として豆腐が使われ、料理方法も多彩に複雑に発達していきました。

 室町時代になると、懐石が発達し、それと同時に豆腐料理も普及していきました。

 そして、一般庶民の食卓にのぼる回数が多くなったのは、江戸時代に入ってからです。

 それは、豆腐が安価で手軽に作れること、そして何より、米中心の日本人の食生活に、その淡白な味覚がぴったりと合ったからに他ならないでしよう。




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豆腐4 ヘルシーフードとして注目! [おコメと、そのパートナーたち]

 古来、肉をあまり食べなかった日本人の食生活にあっては、豆腐は極めて重要なたんばく質源だったのです。

 また、原料となる大豆に含まれるたんぱく質やリノ‐ル酸は、血中のコレステロール値を下げ、動脈硬化や脳卒中を予防するのに優れた働きがあるとして注目されています。

 また、大豆の加工食品である豆腐は、壊れやすい、保存がきかないといった面もありますか、消化器系に負担をかけず、極めて消化吸収が良いといった長所があります。 (全国豆腐油揚商工組合連合会・日本豆腐協会)
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佃煮1 佃島と佃煮の関係 [おコメと、そのパートナーたち]

 佃煮は、その名のとおり東京の佃島が発祥の地であると言われています。

 漁夫が湾内で獲った雑魚を塩煮にし、時化どきの非常食や出漁の際の保存食としたものを、佃島住吉神社のご祭礼の日に神前に供したのが起源であろうとされています。

 発祥の頃は、それを商売にする店もなく、ただ単に佃島の一名物に過ぎませんでした。

 それが、江戸時代の安政から万延年問にかけての頃、これを「佃煮」と名づけて江戸市中に販売する店が現れるようになったのです。

 当時の佃煮は、上流階級に珍重される嗜好食品でしたから、ハゼ・シラウオ・エビ・アミ・ハマグリなど湾内や河口で獲れる新鮮な魚介類だけが使われ、製法も二升炊きくらいの小さな煮釜が用いられ、少墨を丁寧に煮て作られていたようです。


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