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味噌2 戦国武将、栄養源は「一杯の味噌汁」! [おコメと、そのパートナーたち]

 今では簡単で質素な食事と考えられがちな一汁一菜。

 日本人の食の基本とも言えるこの食事パタ‐ンも、実は「みそ汁」の登場に端を発しているのです。

 鎌倉から室町時代にかけて、禅宗の僧侶や上流武士の間で、精進料理や戦陣食としてもてはやされた「みそ汁」。

 大豆に含まれる良質のたんばく質が当時としては欠かせないスタミナ源だったのです。

 戦国武将の武田信玄や織田信長らも大切な栄養源として珍重していました。

 江戸時代にはすっかり大衆の味になり、ひとつの食文化を作り上げたのです。

 野菜、海藻、魚、貝、豆腐など様々な具を入れることによって、栄養価の高いおかずにもなったみそ汁は、以来、今日に至るまで、日本人の食卓と栄養を支える代表的な料理として長く受け継がれてきました。




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味噌1 中国生まれの日本育ち! [おコメと、そのパートナーたち]

 日本人の食生活とは切っても切り離せない「味噌」。

 その歴史は遠く飛鳥時代にまでさかのぼり、その起源は古代中国にあると言われています。

 味噌は平安時代までは、一部の上流階級の人々に珍重される贅沢品でした。

 その後、鎌倉時代に入って大豆の生産が増えると、禅僧の覚心によって申国から伝えられた「径山寺味噌(きんざんじみそ)」が裕福な庶民の間にまで普及し始めます。

 当時の味噌は、ごはんの合間にそのまま食べる「なめみそ」と呼ばれるものでした。

 現在のみそ汁のような食べ方が庶民の食生活にとり入れられるようになったのは、室町時代になってからのことです。

 すり鉢とすりこきで、大豆の粒の形をとどめている味噌を擂り、ペ‐スト状にすることによって、調味料としての利用価値を広げていったのでした。

 今に伝わる味噌料理のほとんどが、この頃から作られるようになつていたのには驚きです。


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納豆4 豊富な栄養!優れた食品! [おコメと、そのパートナーたち]

 「畑の肉」と言われる大豆が原料ですから、たんばく質が豊富なことは勿論ですが、注目したいのは、その消化吸収性の良さ。煮豆のままだと65%くらいですが、納豆の場台は、納豆菌の働きで、なんと80%以上にも向上します。

 納豆100gに含まれるたんばく質は約17g。

 これは、卵なら3個分、牛肉なら80g、豚肉なら120gに相当します。

 しかも、納豆は高たんばく質食品でありながらコレステールがゼロ。

 そのうえ、血中のコレステロールを洗い流してきれいにするリノール酸や、細胞の新陳代謝を活発にするレシチンも含まれています。 (全国納豆協同組合連合会)
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納豆3 ナット、ナットーは、江戸時代! [おコメと、そのパートナーたち]

 大豆を使った食品は、味噌も、豆腐も、納豆も、アミノ酸パランスに優れ、ごはんとの相性が実に良いのが特長です。

 米に少ないアミノ酸を大豆が持ち、大豆に足りないアミノ酸を米が持つていることから、お互いの欠点を補い合って、理想的なアミノ酸パランスがもたらされるのです。

 そんな優れた栄養価を持つ納豆も、商品として販売されるようになつたのは江戸の中期になってからです。

 「ナット、ナット、ナットー!」というかけ声で売り歩く納豆売りが登場したのもこの時代。

 炊き立てのごはんに熱いみそ汁、お新香、そして納豆という、朝食の定番パターンも、どうやら江戸時代にルーツがあるようです。


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納豆2 貴重なたんぱく資源 [おコメと、そのパートナーたち]

 文献をひもとくと、「納豆」という文字が最初に出てくるのは、平安時代に藤原明衡が著した『新猿楽集』です。

 納豆の語源は、寺の納所(台所)で作られたことに由来すると言われています。

 「納所」で「大豆」を原料に作られたから「納豆」。

 至極納得のいくネーミングと言えるでしよう。

 仏教の戒律によって肉食を禁じられた僧侶にとって、納豆は貴重なたんばく質源となっていたのです。

 納豆は、戦国の武将たちにとっても、大切なスタミナ源だったようです。

 文禄の役(1592年)で朝鮮へ出兵した加藤清正の軍は食料難に陥り、すでに空になった味噌袋に馬糧の煮豆を入れて行軍していると、馬の体温で煮豆が蒸れて糸引き納豆ができあがっており、空腹の武士たちの胃袋を大いに満たしたというエピソードが残っています。
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納豆1 それは弥生時代から・・・ [おコメと、そのパートナーたち]

 稲作農耕文化が日本に伝わってきたのが縄文時代の終わり頃。

 そして、弥生時代に入ると、大豆を始めとする豆類の栽培も始まりました。

 けれど、当時の素焼きの土器では、大豆を煮るのは大変なこと。大豆がやわらかくなる前に、土器の方が壊れてしまいます。

 そこで、弥生時代の人々は、煮る時間を少なくするために、あらかじめ大豆を叩きつぶし、乾燥させてから煮るという方法を考案したのです。

 弥生時代の竪穴式住居は、中に炉があり暖かく、床には藁や枯れ草が敷きつめられていました。

 納豆菌に、ほどよい温度と湿度。納豆ができる条件としては、申し分のない環境だったわけです。

 藁の上に落ちた煮大豆が発酵し、いつの間にか「納豆」になっていたとしても不思議ではありません。

 最初は偶然の産物だったかもしれない納豆も、そのおいしさと保存性の良さから、次第に製法が工夫され、確立されていったことがうかがわれます
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海苔④ ビタミン・ミネラルの宝庫! [おコメと、そのパートナーたち]

 のりなどの海藻類は、ビタミツ類が多く含まれているだけでなく、カルシウム、鉄、ヨウ素などの重要なミネラルも含まれています。

さらに、血中のコレステロール値を低下させたり、体内の余分な塩分を排泄する食物繊維も豊富に含まれています。 (全国漁業協同組合連合会)

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海苔③ 味でも、栄養でも、ごはんにぴったり! [おコメと、そのパートナーたち]

 縄文時代から海藻類は食用にされていましたが、米を始めとする穀類が主食となった弥生時代には、特に塩分を補給する目的で多く用いられ、海藻を煮詰めるなどして塩を作る方法も開発されていたようです。

 米が常食されるようになつた平安時代には、食塩とともに海藻が、責族たちの食卓に珍重されるようになりました。

 のりがごはんのおいしさを引き立てるのは、単に相性が良いだけでなく、ごはんの主成分であるでんぶんを消化吸収するのに必要なビタミツB1が、のりにはたっぶり含まれているからです。おにぎりをのりで包んで食べると、いっそうおいしく感じるのも、そんなしっかりとした理由があるからです。

 遠足やビクニックに行く時には、ごはんやおにきりとは別に、焼いたのりをビニール袋などに入れて持って行くと、香りや味もそのままに、しかものり独特の、あのパリッとした歯応えが味わえます。ちよっとした心づがいで、同じものでも何倍にもおいしく楽しめますね。




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海苔② のりといえば「浅草のり」! [おコメと、そのパートナーたち]

 今日、わが国で食用として広く愛されている四角い形に抄き上げた乾のりは、江戸時代に入ってから、養殖されるようになったものです。

 約300年前に始まったのりの養殖は、明治時代になるまで、徳川幕府の政策によって、江戸以外の地方で行われることを、厳しく禁じられていました。

 現在、養殖されているのりは、大半がアサクサノリ、スサビノリの系統ですが、昔から「浅草のり」の名前があまりにも有名です。

 江戸時代、東京湾は現在よりまだまだ広く、陸地に深く入り込んでおり、浅草寺も海辺にあり、近くを流れる隅田川(当時は浅草川)の水もまた清らかで、その河口は、のりの養殖に適していたことから、ここで産出するのりを、「浅草のり」と呼ぶようになったようです。

 徳川幕府に守られた「浅草のり」は、そんな背景があつて、いつの間にか全国にのりの代名詞となつて広まつていつたのです。




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海苔① 古代人が食べた「イワノリ」! [おコメと、そのパートナーたち]

 のり(古くは乃利と書きました)が上古の時代から食べられていたことは、1万年以上前の貝塚から発見される海藻類の豊富さから、十分に想像することができます。

 けれど、その頃ののりは、岩礁などに着生するイワノリであったと考えられます。

 出雲風土記(733年)には「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬいこうり)がもっとも優る」という記述があります。

 出雲の楯縫郡の海岸(現在の平田市十六島海岸)で採れるイワノリがいちばんおいしい、という意味です。

 また日本で最初の法律書である「大宝律令」(701年)には、約30種類の海藻類が「調(みつぎ)」として挙げられています。

 調は税金のこと。つまり、奈良・平安時代には、のりを始めとする海藻類は、税金の代わりとして納められるほど価値があり、貴重な食べ物であつたことをうかがい知ることができます。


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漬物③ 漬物は、原料の持ち味を活かす! [おコメと、そのパートナーたち]

 原料が野菜である漬物は、当然ビタミン類が豊富であり、食物繊維の供給源としても優れていることから、糖尿病などの成人病には効果があると言われています。

 また、原料野菜の持ち味を損なわず、ビタミツなどの栄養分の損失もありません。

 しかも、野菜の生ぐさみやアクをとり、歯ごたえも良く、適量の塩味が香味・風味を引き出し、とてもおいしく食べられます。

 特筆すべきことは、浅漬けの場合はビタミンCがほとんどそのまま残っていること、糠漬けの場合は生の野菜よりビタミンBの含有量が多いことなどが挙げられます。

 また、塩分については、製法技術の改善により、市販品の場合、かつての半分以下に低塩化が進んでいます。 (全日本漬物協同組合連合会)
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漬物② 江戸時代の人気物「たくあん」 [おコメと、そのパートナーたち]

 江戸時代の豊宮な漬物の種類の中でも、たくあんの需要は特に高く、しかもその生産量のほとんどを練馬(根利間)の農民に頼っていました。

 練馬大根は、この頃から人気者だつたのです。

 このように日本で漬物が独特の発達を見せた理由としては、主食としてのごはんの味によく合うからだと言えなくもありません。

 また、漬物は、食味だけでなく、食欲増進などの点からも、ごはんとの相性が、極めて良好と言えるでしよう。



漬物① アジア独特の食料の保存方法 [おコメと、そのパートナーたち]

 加工食品の重要な役割の一つに、保存性を高めるというとがあります。

 加工貯蔵の方法には、乾燥・加熱・燻煙などが古くからありました。

 しかし、アジアにはもうひとつ、発酵法による貯蔵という独特の方法があったのです。

 漬物はその代表的な食品と言えます。

 中国最古の農書「斉民要術(さいみんようじゅつ)」に、穀類に塩をあてて乳酸発酵させる調理加工法が、小松菜や高菜を例にとって記載されています。

 わが国の文献の中に「漬物」が初めて登場するのは4世紀の頃、東大寺の正倉院に納められている古文書「雑物納帳(ぞうもつおさめちょう)」に「にらぎ」という文字が出てくるのですが、これは、野菜を塩漬けにしたもののことだそうです。

 「漬物」という言葉が現れるのは、平安時代の後醍醐天皇(905~927年)の頃に撰定された「延喜式(えんぎしき)」。

 山菜や野菜、果物を酒粕やもろみに漬けて供されたとあります。その種類も、春14種、秋36種とあり、その多彩さがうかがわれます。

 漬ける物も、漬け床も、どんどん多彩になっていきました。

 「延喜式」に登場する漬物の漬け床を挙げると、塩漬け、醤漬け、糠漬け、須々保利(米か大豆粉と塩を混ぜて漬けたもの)などかあり、平安時代すでに、塩だけでなく現在の調味漬けに相当する多彩な漬け方の原形があったのです。

 平安から室町へと時代が移るとともに、漬物はさらに多様化し、変化に富むようになります。

 室町時代は茶の湯、花、聞香などの新しい文化が生まれ、茶の湯の温度を漬物で加減したり、闇香での嗅覚の新鮮さを保つのに漬物を使ったり、漬物は高貴な文化の一端を担う役割を持つようになりました。

 「香物」という言葉は、まさしく室町文化が生んだものです。

 時代が下がって天保7年(1836年)に江戸の漬物問屋の主人が著した「漬物早指南」には64種類の漬け方が紹介されています。



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農作業カレンダー [おコメの雑学]

<3月> 塩水に種もみを入れて、沈むのがよい種もみ。
        ずっしり実の詰まった重い種もみを選ぶ。=<塩水選>
     水をたっぷり吸わせて発芽のウォーミングアップ

<4月> 育苗箱に種をまく
     根や茎の丈夫な、ずんぐり型の苗を育てる。
                ひょろひょろ苗は駄目!
     田圃に堆肥や肥料を与えて良く耕し、
       酸素もたっぷり吸わせて、バランス良い土を作る=<田おこし>
     田に水を引き、水の深さや水はけにムラが
                 出ないように表面をならす=<しろかき>

<5月> 田植えをする
     田植え直後は、かよわい苗を風邪や寒さから守るため水を深めに。
                  9月上旬まで、こまめに水管理。

<6月> 田の土をほぐし、雑草を取る。
     水管理の効果を高められるよう、苗の間に溝をつける=<溝きり>

<7月~8月>
     苗の根をいためるガスを抜き、酸素を取り入れるため
               1週間くらい田の土をかわかす=<中干し>
     稲穂を育てるための肥料を与える
     病害虫を防ぐための農薬をまく

<9月~10月>
     田の水を抜く
     稲の実りを見極め、計画的に刈り取る
     もみを乾燥させ、もみがらを落として玄米にする=<もみすり>
     玄米を袋に詰め、保管する
     販売店などを通じ、お米が消費者の手に入る
     来年の種にするもみ(種もみ)を選ぶ

<11月~2月>
     土の成分を調べ、足りない養分などを補う
 


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黒米の食べ方 [古代米]

 黒米は、ふつうのお米に、ほんの少量混ぜて炊くと、ピンク色に炊き上がり、おにぎりにして食べても、ちょっとねばっとしていて美味しいものです。

 現在はアズキを入れて赤飯を作りますが、昔はお米だけで赤飯になりました。

 玄米の食感が気になる人は、ヒジキ、栗、たけのこなどの好みのものを入れた炊込みご飯がおすすめです。

 現在の日本の家庭ではふつうl日に1~2合はご飲を食べていると思います。

 ここに古代米・黒米を加えれば。必要な栄養をコンスタントに取り込むことができます。



(黒米を食べる場合、白米2~3合に対して大さじ1杯が目安となります。)

黒 米 [古代米]

 玄米の色が黒色で果皮・種皮の部分に紫黒色系色素(アントシアン系)を含んだコメです。

 5分づき(少し精米)にすると米が紫色になるだめ、紫米とか紫黒米とも言われます。

 糠を全て取り除くと白米に近い色になります。

 米粒の形は、ジャポニカ種(短粒)とインディカ種(長粒)があり世界的には後者が多くほとんどが繻(もち)です。

 黒米は、おはぎの起源で古くから祝いの米として珍重されてきたという説もあります。

 中国では明の時代、李時珍の「本草綱目」に「黒米は女性の生理・腎臓を補い、脾臓・肝臓に良く、目の血のめぐりを良くする。

 更に、滋養強壮に優れ、造血作用があり、髪の毛の黒さを増す」と記されています。

 古来、中国で黒米は宮廷献上米として皇帝や女官たちに独占されており、揚貴妃も美容食として愛用していたと伝えられています。

 また、薬膳料理にも古くから使われていることから薬米の別名もあります。

 栄養成分は現代の白米と比ベ、たんぱく質・ビタミンB1・B2・ナイアシン・ビタミンE・鉄・カルシウム・マグネシウムなどが豊富に含まれています。

 中でも、黒米の糠に含まれるアントシアニンは、血管を保護して、動脈硬化を予防し、発ガンの抑制に関係する抗酸化作用が認められています。


赤 米 [古代米]

 玄米の色が赤褐色で果皮、種皮の部分に赤色系色素(タンニン系)を含んだコメです。

 5分づき(少し精米)にすると薄紅色になり、糠(ぬか)を全て取り除くと白米になります。

 米粒の形にはジャボニカ種(短粒)とインディカ種(長粒)があり、日本ではジャボニカ種の粳(うるち)が多く見られます。

 野生稲の大部分が赤米であることから、赤米はコメのル一ツであり、赤飯の起源と考えられています。

 栄養成分は、現代の白米と比べ、たんぱく質や各種のビタミン・ミネラルが多く含まれています。

 縄文時代、日本に初めて伝わった米はジャポニカの赤米だっだと考えられています。

 邪馬台国や大和朝廷への献上米も赤米が主だったと云われています。

 奈良時代の「尾張国正税帳」には、赤米を酒の料として皇室へ納めたとあります。

 「枕草子」には、「男の片手に甚赤き稲の…」とあります。

 鎌倉時代には、大唐米・大唐法師と呼ぱれる赤米が中国から渡来し広く栽培されました。

 江戸の井原西鶴の書物にも「赤米」は、数多く登場します。

 薩摩藩では田んぽの50%も赤米が作られていました。

 明治に入ると赤米は雑草と考えられ国をあげて赤米駆除運動が始まります。

 岡山県総社の国司神社、対馬の多久頭魂神社、種子島の宝満神社は遠い昔から現在まで連綿と赤米を守り続けて来ました。

 赤米は昭和30年代まで全国各地で作られていたようです。

古代米の特徴 [古代米]

 古代米とは、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる米(稲)のことです。

 この「古代米」には次の様なの特徴があります。

 ● 玄米の色が赤や黒や緑なとど有色米が多い。

 ● 稲穂の一粒一粒に針のように亡(のぎ)を持つものが多い。

 ● 生命カが極めて強く、荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち、干ばつ・冷水などにも強い。

 ● 背丈が1.5メートル以上にもなるため、倒伏しやすい。

 ● 実りのころ、籾がひとりでにこぽれ落ちるものが多い。

 ● 品種改良された現代の米に比べて収穫量は半分以下と少ない。



電子ジャーでの保存は最高5時間まで! [おコメの保管方法]

 炊いたごはんをジャーで6時間保温しておくと、もう一度ご飯を炊くのと同じくらい電気代がかかります。

 しかも、5時間を超えると味も落ちてしまいます。

 そして、艶がなくなりごはんが黄ばみ、香りは臭みに変化してしまいます。

 これは、ごはんを長時間保温すると、そのでんぷん質が変化するのが原因なのです。

 朝炊いたご飯は昼まで、昼炊いたご飯は夕飯までが保温の目安です。

 夕飯の残りを保温して朝、食べても美味しくありませんし不経済です。

 炊飯してから5時間以上経った場合には、冷蔵か冷凍をして保存したほうがよいでしょう。

風通しのよい日陰が一番! [おコメの保管方法]

 おコメの保存には、風通しがよく、涼しくて、暗い場所が適当です。

 ところが今の家庭のキッチンの中には、この条件を満たすスペースが少ないのです。

 キッチンでは火を使い、しかもお湯などを沸かしますので、他の部屋より温度が高く、湿度も高くなります。

 冷蔵庫などの電気製品も放熱しますし、水仕事の水がかかるおそれもあります。

 以前は薄暗かった台所も、今では大きく窓をとり日の当たる設計が多くなり、キッチン全体がお米を保存するには適さない状態になっています。

 キッチンから一歩外へ出れば、適当な場所があるのかもしれませんが、あまりにも不便。

 ですから、10キロまとめて買った場合には、2~3キロをキッチンに置き、残りを納戸などにしまっておくとよいでしょう。

 また、冷蔵庫に余裕があるのなら、密閉して冷蔵しておけば、お米の質は低下しません。床下収納のある家庭では、ここを利用するのもよいでしょう。風通しは、よくありませんが、温度はかなり低くなります。

季節によって購入量を変えましょう! [おコメの保管方法]

 精米したおコメの賞味期間は、季節によって変わります。おコメが収穫される秋口から翌年の3月頃までは、おコメそのものが新米で鮮度がよく、しかも気温が低いので、2ヵ月は保存できます。

 春を迎えると、収穫時から半年も経っていますので、「お米の古米化」が進み気温も上がるので保存環境も悪くなります。そのため、4~5月の保存期間は、1ヵ月が目安となります。

 さらに季節が進み高温多湿になると、保存期間を短くしなければなりません。

 気温が30度を超えると、お米はたちまち劣化してしまいます。

冬場に10キロ買い、1ヵ月で食べ切っていた家庭なら、6月以降は5キロぐらいを目安にして買いすぎないように注意しましょう。

また、お米を買う場合には精米日を確かめ、なるべく精米後の期間が短いものを選びましょう。



ごはんは、パンより低カロリー! [ごはんと栄養]

 脂質はエネルギー源として重要であり、肌の潤いを保ったりするうえでも必要ですが、取りすぎに気をつけなければ、肥満や成人病の原因になります。

 高カロリーになりがちな、現代の食生活では、十分な脂質がおかずからとれるので、主食くらいは低脂肪なものにしたいですね。

 その点、お茶碗一杯のご飯のほうが、食パンを一枚食べるよりも低カロリー!。

 しかもパンには、バターやマーガリンを塗ったりするうえ、脂っこい料理の方が合うことも考えられますので、ご飯を中心とした食事の方が、ダイエットに適しているといえます。
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体に必要なビタミンとミネラルって? [ごはんと栄養]

 ご飯には、ビタミンやミネラル、食物繊維なども含まれています。

 茶碗一杯のご飯の中の栄養を、私達の身近な食品に置き換えてみると、プチトマト3個分のカルシウム、トウモロコシ3分の1本分の鉄、さやえんどう12枚分のビタミンBそして、レタス1枚半にあたる食物繊維。

 最近不足が問題視されているマグネシウムや亜鉛といったミネラルも、それぞれグリーンアスパラガス5本、亜鉛ならほうれん草2分の1束分あります。

 体内の細胞や血管の若さを保つ「老化防止ビタミン」であるビタミンEは発芽する食品に多く、ご飯にもゴマ小さじ8杯分に匹敵する量が含まれています。

昔、日本人のタンパク源は、おコメでした! [ごはんと栄養]

 意外と知られていませんが、ご飯には、蛋白質がたくさん含まれています。

 ご飯は、昔、日本人の重要な蛋白源でした。ご飯に足りないリジンも、大豆の蛋白質が補うので、ご飯に味噌汁という理想の組み合せができたのでしょう。

 蛋白質は血や肉、細胞を形成し、体の基本を作る大切な栄養素。

 高蛋白な食生活がよいとされるのはそのためで、特に成長期にはたくさん取りたいものです。

 また、ご飯は蛋白質の利用効率を高めるエネルギー源でもあるので、おかずと一緒に残さずちゃんと食べましょう。


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「越後屋、おぬしも相当の・・・」の、<米問屋>って何? [おコメの歴史]

 テレビの時代劇に、ときおり「米問屋」の善玉、悪玉が登場しますが、米屋というのは見かけたことがありませんね。

 また、その当時の「米問屋」や「米屋」が、どのような事を仕事として行なっていたのか、あまり知られていません。

 では米屋は、いったい、いつ頃から生産者と消費者の間に立って、おコメを商品として取り扱うようになったのでしょう。

 一番古くは、奈良時代の平城京にある「東西市」に、米店がもうけられいたことが事実として残っております。

 また、平安時代、平安京の市にも「米店」が設置され、その後、「問丸」という業者が、中世の米問屋と輸送業を行なうようになりました。

 このことからも、「米屋」の方が「米問屋」よりも先に登場したことになります。

 江戸時代になると、米販売に対して、いろいろな役割に分化されるようになってきました。



下り米問屋・・・上方からの入津米(海上輸送で市場に入った米)を取り扱う米問屋。

地回米問屋・・・関東、奥州の入津米を取り扱う米問屋。

関東米穀三組問屋・・・地回米問屋とは別に、関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、
           上野、下野)と陸奥の九国の入津米を取り扱う米問屋。

米 仲 買・・・「米問屋」と「搗米屋」との中間に立って米を取り扱う所。

脇店八ヶ所組米屋・・・諸家藩米の払い下げを受ける米屋。

搗 米 屋・・・玄米を仕入れて白米にし、消費者に小売する米屋。
        いわゆる現在の役割をする所。




 そのほか幕府の払い米や、旗本、御家人の俸禄米を一手に引き受け、金融業も兼ねていた「札差」という大問屋もありました。

 これは江戸における米屋の業種であり、大阪はまた江戸とは異なった流通をもち、同じお米を扱っていても業態は独自のものを持っていました。
 
 当時の米問屋は、運搬を考えて、ほとんどが河川の川岸に店を持っており、今の魚河岸のように「米河岸」を形成していたということで、今の業態からみると実におもしろく、当時の様子がわかります。


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武士は食わねど、1日2食? [おコメの歴史]

 現代の私たちの食事は、「一日三食」が健康的な食べ方ですが、昔の人は、どうだったのでしょうか。

 古代の人は、時計もなく、きまぐれ(?)だったでしょうから、オナカが空いた時に食べたのでしょう。

 奈良、平安時代になると、朝(午前10時ごろ)と、夕(午後4時ごろ)の2回になりました。

 武士も食事の回数は「一日二食」でした。食べる量は大変多かったそうです。

 やがて、時代は戦国時代へ。この頃になると、武士の食事も「一日三食」が普通となってゆきます。

 そして、現在まで「一日三食」の食事が続いています。

昔はおコメを焼いて食べた? [おコメの歴史]

 古代の人達は、どうやっておコメを食べていたのでしょうか。

やがて、水につけておいたおコメを、玄米のまま布にくるみ、穴を掘って埋め、その上に石を置いてマキを燃やし、蒸して、食べる方法を考え出しました。

 これを、強飯(コワイイ)と呼びます。

 その後、土器で蒸し器を作り使用しました。

 また土器でおコメを煮て「おかゆ」の様な状態にして食べる方法もありました。

 いずれにしても、当時は精米などはせずに、玄米のまま食べていたのです。

 鉄製の釜や鍋が作られる様になった平安中期から、おコメをといで水に浸して炊く方法が取られる様になったのです。

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おコメのルーツは、北九州? [おコメの歴史]

 毎日何となく食べている「おコメ」は、どこで生まれ、どうやって日本に伝わってきたのでしょうか。

 本当のことを言って、おコメの発祥、伝わりかたなどは、まだよく分かっていないのです。

 今から6000年ほど前、インドのアッサム地方の民族によって、稲の栽培が始められたと考えられています。水辺に生えている稲を食べ、次第に野生の種をまいて育てるようになり、その後、刈取り、収穫する技術を身につけました。

 東南アジア、西アジア、アフリカへと広まったおコメが、中国に伝わったのが、今から5000年程前です。

 揚子江の下流でおコメを常食としていた人々によって2000年程前に日本に伝わってきたのです。

 伝えられた場所は、今の北九州あたりと言われています。

 そして、時をかけて稲の栽培は、近畿から東海、関東、東北へと伝わりました。
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