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「越後屋、おぬしも相当の・・・」の、<米問屋>って何? [おコメの歴史]

 テレビの時代劇に、ときおり「米問屋」の善玉、悪玉が登場しますが、米屋というのは見かけたことがありませんね。

 また、その当時の「米問屋」や「米屋」が、どのような事を仕事として行なっていたのか、あまり知られていません。

 では米屋は、いったい、いつ頃から生産者と消費者の間に立って、おコメを商品として取り扱うようになったのでしょう。

 一番古くは、奈良時代の平城京にある「東西市」に、米店がもうけられいたことが事実として残っております。

 また、平安時代、平安京の市にも「米店」が設置され、その後、「問丸」という業者が、中世の米問屋と輸送業を行なうようになりました。

 このことからも、「米屋」の方が「米問屋」よりも先に登場したことになります。

 江戸時代になると、米販売に対して、いろいろな役割に分化されるようになってきました。



下り米問屋・・・上方からの入津米(海上輸送で市場に入った米)を取り扱う米問屋。

地回米問屋・・・関東、奥州の入津米を取り扱う米問屋。

関東米穀三組問屋・・・地回米問屋とは別に、関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、
           上野、下野)と陸奥の九国の入津米を取り扱う米問屋。

米 仲 買・・・「米問屋」と「搗米屋」との中間に立って米を取り扱う所。

脇店八ヶ所組米屋・・・諸家藩米の払い下げを受ける米屋。

搗 米 屋・・・玄米を仕入れて白米にし、消費者に小売する米屋。
        いわゆる現在の役割をする所。




 そのほか幕府の払い米や、旗本、御家人の俸禄米を一手に引き受け、金融業も兼ねていた「札差」という大問屋もありました。

 これは江戸における米屋の業種であり、大阪はまた江戸とは異なった流通をもち、同じお米を扱っていても業態は独自のものを持っていました。
 
 当時の米問屋は、運搬を考えて、ほとんどが河川の川岸に店を持っており、今の魚河岸のように「米河岸」を形成していたということで、今の業態からみると実におもしろく、当時の様子がわかります。


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